執筆者:富山県出身の元消防士
前置き:東日本大震災の概要等の詳細は、今回省略させていただき、主に体験談や思ったことを執筆いたします。
「何もないじゃないか・・・人もいない・・・」
当時、私は富山県の緊急消防援助隊の隊員として、地震発生の翌日早朝に現地入りしたのですが、この言葉が第一声でした。
現地入りした場所は、宮城県名取市、海から約1kmの住宅街。
辺り一面、何もない殺風景だったのですが、よく見ると家の基礎部分だけが残っていましたので、間違いなく家が建っていたことだけはわかりました。
「各隊、人命救助を最優先とし、生存者の捜索にあたれ。」
消防援助隊大隊長から指示が出されたのですが、何をどう捜索すればいいのか。
人も、建物も、何もないのに・・・
東日本大震災の時には、防災シェルターはあったのか?
地震発生日時は、平成23年3月11日14時46分18秒。
今から9年前(R2.4.15現在)のことなのですが、その頃から防災シェルターというものはあったのでしょうか。
当時、現職として消防士をした私は、防災シェルターというものは一部の地域や特別な施設にしか設置されていないものだと思っていました。
そして、震災時も“防災シェルターに避難していたので一命を取り止めた“という情報は、一度も耳にすることはありませんでした。
とは言いましても、当時でも自宅やその周辺場所に防災シェルターを設置していた方がいたのかもしれません。
しかし、現地での活動期間中に一度も聞かなかったということは、”幅広く普及していたものではない”ということだけは言えるのではないでしょうか。
実は、防災シェルターは当時でも珍しいものではありませんでした。
米国では竜巻が多く発生するのですが、年間で千件以上発生するそうです。
竜巻は、日本で発生してもさほど大きな被害をもたらすことがなく、あまり重要視されていませんが、米国では多くの死傷者を出しており、頻回に発生する地域では地下に竜巻シェルターを設置しているご家庭が多いと聞きます。
また、日本においては桜島や浅間山などでは、火山が発生する恐れがあることから、それを防ぐための防災シェルターが設置されているそうです。
しかし、このようなことを知っている日本人は、仕事の関係で知っているか、若しくはその地域の住民の方々ぐらいでしょう。
日本では、東日本大震災以降に防災シェルターの重要性について関心が集まり、研究・開発が進められるようになりました。
防災シェルターで多くの命が救われる
「東日本大震災の時に、防災シェルターが普及していたらなあ…。」
こんなことを私が経験した当時の現場活動を思い出しながら、改めて考えてみたことがあります。
「~だったら違っていた。」なんて考えても、返ってくるものなど何も無いのですが、これからの備え・準備といったことの進展に、大いに役立つことではないでしょうか。
この記事の没頭で、” 辺り一面、何もない殺風景だったのですが、よく見ると家の基礎部分だけが残っていました”ということをお話させていただきました。
そうなのです。
津波によって家はすべて流されていたのですが、家の基礎部分だけは残っていたのです。
これは、何を意味しているのか。
津波は、とてつもなく大きな力を持っており、建物さえもさらっていきます。
しかし、家の基礎部分はまったく流されていない…
このことは、地下の部分までは津波の影響を受けないということを意味しているのです。
私も、現地で確認したのですが、多かれ少なかれ崩れている部分もありましたが、基礎部分が野ざらしで見えている状態か、若しくは土砂で埋まっているだけか、この2パターンしかありませんでした。
津波の被害に対しては、津波シェルターという水に浮くタイプの防災シェルターがありますが、水に浮くという構造上、当然津波に流されてしまうのですが、潰れることもなく、また完全防水で作られていますから、身の安全は確保できます。
しかし、地下に設置するタイプの防災シェルターであれば、流されるといったことも無く、また浸水においても完全防水の構造になっていることも変わりません。
つまり、身の安全が確保されていることはもちろんのこと、設置したその場所から意図せずに移動させられることもありません。
また、出入り口の部分にはジャッキが設置されていて、仮にシェルターの上に瓦礫などがあったとしても、容易に開けることができる構造にもなっています。
地下式の防災シェルターは、火災、地震、テロ行為による爆破、火山弾のみならず、津波にも有効性が高いということを被災地の現場活動の経験から知ることができました。
地上に設置するタイプの防災シェルターは、比較的安易に且つ低価格で設置することができますが、地下式の防災シェルターのメリットも捨てがたいものです。
※ 今回、防災シェルターの有効性について執筆させていただきました。あまり体験談といった内容ではありませんでしたが、他の記事でまた当時のことをお話させていただきます。